水天宮・金刀比羅宮
すいてんぐう ・ ことひらぐう   

御祭神

天乃御中主大神、安徳天皇、大物主大神、崇徳天皇、住吉大神、他二柱

御神徳

安産、児童守護、交通安全、水関係職種の守護

当 水天宮はもともと寛政9年(1797年)6月に大阪中之島・久留米藩蔵屋敷内に祀られた社である。
明治維新に際し、蔵屋敷は朝廷に返上、水天宮の御神霊は丸亀藩蔵屋敷の金刀比羅宮に合祀された。しかし、丸亀藩蔵屋敷も返上することになったため、高松藩蔵屋敷の金刀比羅宮に遷され、その後、堂島中二丁目に遷座された。さらに明治42年の「北の大火」で社殿が被災したため当地に遷され、露 天神社の境内社として斎祀されるようになった。
明治天皇御誕生の際、孝明天皇が御安産を御祈誓、無事御降誕の後、当水天宮(久留米藩蔵屋敷内)へ鳥の子餅を御奉納されたと伝えられている。
また、金刀比羅宮は江戸時代、中之島にあった高松藩、丸亀藩両蔵屋敷の中にそれぞれ祀られ、霊験あらたかと毎月縁日には参詣人が群れをなしたと伝えられている。
当時大阪では毎月十日が金刀比羅巡りの日とされ、土佐堀川常安橋北詰西の高松蔵の金刀比羅様と上町空堀の遥拝所、千日前法善寺の金刀比羅様は特に賑わったという。
明治期以降の変遷は「水天宮」と同じ。

開運稲荷社
かいうんいなりしゃ

御祭神

玉津大神、天信大神、融通大神、磯島大神

御神徳

商売繁盛、五穀豊穣、皮膚病治癒

明治42年「北の大火」によって近在各地に祀られていた四社の稲荷社が烏有に帰した。
翌明治43年に当社境内地に四社を合祀し御奉斎申し上げた。
古くは皮膚病の治癒を願って「鯰」の絵馬が多数掛けられ、お百度を踏む人々で混みあうほどだったと伝えられている。
現社殿は一部修復工事を施したものの往時のままで、正面左右の扉を開放すると社殿内を一巡することができ、当時のお百度詣りの様子をうかがい知ることができる。
なお、明治42年の「北の大火」で焼け残った御神木でつくられた神號額が、その旨の裏書とともに伝わっている。

難波神明社(旧跡)
なにわしんめいしゃ

「夕日の神明」とも称されたこの社は、平安初期弘仁12年(821年)、嵯峨天皇の皇子河原左大臣源融公が今の西天満伊勢町あたりの孤島に祀られたのが始めといわれている。往時はこの地を「大神宮の北の洲」、または「神明の鼻」と称し、一帯が境内地であった。伊勢町、木幡町の名はここを起源としているといわれている。
文治年間(1185~1189)、源義経が福島で梶原景時と「逆櫓の論」をした時、当社に寄付物を奉納し願書を収めたと伝えられている。
後醍醐天皇の御代には勅願書となり度々行幸の栄を受け、後代の江戸期には、大阪城代および両町奉行の崇敬が殊に厚く、境内も広大であった。
社殿が東向きの春日出の「朝日の神明社」、南向きの鶴町の「日中の神明社」、西向きだった当社「夕日の神明社」をあわせて『大阪三神明』と称した。
また、東京芝神明宮、京都松原神明宮、同東山神明宮、加賀金沢神明宮、信濃安曇神明宮、出羽湯殿山神明宮と当神明宮をもって『日本七神明』ともいわれた。
しかし、天保5年(1834年)7月11日の火災によって社殿が焼失し次第に社勢も衰え、明治42年の「北の大火」でも被災、翌年当社に合祀された。当社現御祭神のうち、天照皇大神、豊受姫大神はこの神である。
現在は、当社東方約500メートルに位置する旧境内地の一隅に碑を設け、当社大祭に先立ち7月19日に例祭を斎行している。
また、往時は毎年6月1日に冬季から貯蔵しておいた天然の氷を食べて、夏中はやり病にかからないよう祈願をしていた。この行事は一般に「氷の朔日」と呼ばれ、近松の『心中刃氷朔日』の題名にもとり入れられている。